スポンサーサイト
-- / -- / -- ( -- ) |
プロスペローの本
2009 / 09 / 21 ( Mon ) 昔、ぼくが付き合っていたある女の子は「さよなら」はいわないでとぼくにいいました。
なんだかとても悲しい気持ちになるからと。 それ以来、ぼくはたぶん「さよなら」という言葉を使っていないような気がします。 数日前、夕方の道を歩く途中、ふと見上げると、 空を染め上げる夕焼けがあまりにもすばらしくて、ぼくは1人足を止めておりました。 そういえば、空に美しい夕焼けが広がると、ぼくの母は必ずといっていいほど、 幼い子供たちを呼び寄せたものでした。 彼女がどんな思いでその空を見上げていたのか、いまとなっては知る由もありません。 振り返ってみると、人がどんな思いでこの言葉を使い、 どんな思いでその風景を見つめたのか、 そんなことすら、ぼくたちは知らなかったりします。 それでも、この広い空を見上げるとき、ぼくははっと息を飲み、 自分はなんて美しい世界に生まれてきたのだろうと思います。 そして、人がたった一度だけ口にした「さよなら」は、 その言葉がその人の唇から消え去ったあとも、その言葉の重みとともに、 しっかりとぼくの心に刻みつけられています。 生きていれば、小さな悩みやちょっとした傷は絶えないものだけど、 そんなあまりにも広大な世界を見つめていると、 ぼくたちはそれだけで祝福された存在であると感じられるようになる。 そして、じっと夕焼けの空を見つめていたそんな母に育てられたからこそ、 いまのぼくはこの場所に立っているのだと思います。 そんな夕方の空や「さよなら」という言葉と同じように、 物事にはすべて終わりというものがありますね。 全能のプロスペロー(シェイクスピア「テンペスト」の登場人物)は、 芝居がいよいよその終幕を迎えると魔術の本を置き、 観客に向かって、彼らのその息と拍手の力で 自分が国へと帰るための船の帆を満たしてほしいと訴えます。 全能であるがゆえに彼は「本=力」を置く。 人に人の心を溶かし、救う力があるとしたら、それは術や論ではなく、 人のぬくもりやまなざしの力なのではないかと思います。 プロスペローの乗り込む船の帆を満たすように、人は誰でも、相手の心を満たす、 すばらしい力を秘めている。 神秘の書物や技は確かに魅力と力を秘めてはいるけれど、 顔を上げれば漆黒の宇宙を抱えたその空はどこまでも広く澄み渡り、 人々の体にはぬくもりがある。 その事実を知っていたからこそ、彼は「本=力」を捨てるのだよね。 澄み渡る空を見上げ、人のぬくもりを確かめるために彼は顔を上げるのだよね。 本当の意味で聡明な人物は、いつかその手のなかにある「本=力」を閉じるのかもしれない。 あるいはその「本=力」を閉じる方法を知るために、彼は学ぶのかもしれない。 それでも人生がひとときの夢にしかすぎないというのなら、 いまはその夢をめいっぱい楽しめばいいのではないかとぼくは思います。 人生をわたっていくには、もちろん恐ろしさや心細さもあるけれど、 でも、あなたは1人ではないし、人生にはかならずどこかに救いが用意されている。 コーチとはまさに、そんなあなたの人生の帆を満たす風のような存在だと、ぼくは思います。 さて、ここ最近、いくつかの仕事が重なったこともあり、 ブログの更新期間がすっかり空いてしまいました。 インターネットという宇宙のなかには、打ち捨てられた廃墟や難破船のような ブログやホームページの残骸が無数に落ちていて、 その打ち捨てられた記事を読み進めていくと、たいていそれは突然に、 まさに何の前触れもなく終わりを告げています。 最後の記事は今日食べたものだとか、これからやろうと思っていることだとか、 そんななにげない日常が綴られていて、 まるで「ちょっとそこまで出かけてくるよ」なんて調子で家を出ていったはずの彼らは、 しかし、もう二度とそこに戻ってくることはなかったのですね。 そんな、つい最近まで持ち主がそこにいたような気配や名残が余計に物悲しくて、 それはなんだか廃墟のたたずまいに似ているのだと思います。 一方で、記事を更新できない間、ひょっとするとぼくのブログも ここで一区切りをつけるタイミングが来たのかもしれないと思いました。 個人的にはまだまだおしゃべりしたいことがたくさんあるのだけど、 いまのぼくはそんなおしゃべりしたい気持ちより、 しばらくの間、じっと口をつぐんでいるべきなのかもしれないと思ったのです。 「戻っておいで」と心の声が聞こえたときは、きっとまた戻ってくるけれど、 いまのぼくは少なくともあなたに向かって「しばらく留守にするよ」という言葉を 言い残しておきましょう。 そうすれば、いつか偶然、この場所を訪れた誰かが、 あの物悲しい廃墟に佇むような気分になることもないでしょうから。 人生の舞台はいつだってあなたのためにある。 だからこそ、あなたの人生が引き続きあたたかく、そして、すばらしいものでありますように。 あなたの唇に今日も笑顔がありますように。 あなたの人生の帆が今日も満たされておりますように。 日々の拙い文章のどこかに、そんなささやかな願いをこめたつもりではおりましたが、 いまとなっては、それももう過ぎたこと。 目が覚めた途端に、はかなく散って消えてしまう、ささやかな夢のようなものとなりました。 いまはとにかく、そんなあなたに幸せと感謝をこめて。 全能であるということだけでは、完全な存在たりえない。 なぜなら、そこには温かい血が流れていないから。 だからこそ、プロスペローは「本=力」を置き、ぼくたちはそんな彼にならって、 誰かの息遣いを頼りに心の帆を張り、そして、ひょっとしたら、誰かの心の帆を、 ほんの少しだけでも満たしていけたらいいなと思います。 なぜなら、たぶん、それが人生ってやつだから。 生きている限り、ぼくたちは今日も誰かを傷つけ、 あるいはあなた自身の瞳から涙がこぼれ落ちることだってあるかもしれない。 けれども、もし、そんな風にして、 ぼくたちが人生という緩やかな螺旋階段を上っていくことができたなら、 それはとてもすてきなことだと思います。 あなたの旅路が、今日も祝福のなかにありますように。 たとえ、それがはかなく消える夢でしかなかったとしても、 あなた自身がぼくたちとともにいてくれた事実と時間は しっかりと、そしてなにものにも代えがたいものとして、 ぼくたちの心のなかに刻み込まれているから。 そんな言葉をそっと置きつつ。 |
まっすぐに受け取る
2009 / 08 / 10 ( Mon ) 月曜日を迎えて、ぼくの住む地域は再び雨の朝となりました。
大雨に襲われている地域の人々がどうか守られるようにと思います。 しかし、日本のお天気はいったいどうなってしまったのかしら?? さて、本題へとまいりたいと思いますが、 本日は「人と真剣に関わる」 という切り口から、お話を進めてまいりましょう。 みなさまは「自分なんか、いなくてもいいでしょ」と実際に口にしてみたり、 集団のなかでの自分の存在を軽く扱ってしまうことってないですか? そんな光景に対してぼくのお客様の1人が、 ふとこんな感想を口にされたのです。 「その人としゃべりたい人もいるかもしれないのに、 どうしてその人は人と真剣に関わらないのだろう…」と。 人と「真剣」に関わっていない・・・ う〜ん。 たしかになぁ。 、、、と、その方のお話を聞きながら、 ぼくは思わず膝を打ってしまいました。 「わたしなんかいなくても」的な感覚や態度は、 一見、謙遜であったり、自己犠牲的な 奥ゆかしい行動のように見えることもあるのだけど、 ぼくたちはそんなあなたにこそ「会いたい」と思うし、 そんなあなたにこそ「元気でいてほしい」と願う、、、ものなのだよね。 そんな人々の想いに応えないということは、 決して美しい行為なのではなくて、 裏を返せば、そんな風に自分のことを想ってくれる人々の気持ちを 真剣に受けとっていないということだ。 人の想いを受け取る 真に美しい行為というものは、 たとえば、お誘いやお祝いには、 まっすぐに応えるとか(誘いを必ず受けるということではなく)、 あるいは周囲からの祝福に対しては まっすぐ純粋に喜ぶという 実はそんな単純なことなのかもしれない。 そういえば、この発言をされたぼくのお客様は そんな純粋な「まっすぐ」さがある人だなぁとも思いました。 一見無邪気に思える行為ではあるけれど、 これはまぎれもない人徳であり、人間力だと思います。 周囲の人々の気持ちを ただ「まっすぐ」に受け取るということ。 これはぼく自身も改めて 大切にしていきたいと思わされました。 自分の存在を「大切に扱う」ということは、 人と「真剣に関わる」ということ。 そして、目の前にいる人を しっかりと大切に扱うということは、 自分自身を「大切に扱う」ということでもある。 そんな思いを胸に秘めながら、 ぼくたちはまた新たな月曜日を はじめてまいりましょう。 ではまた。 |
コントロール
2009 / 08 / 07 ( Fri ) たとえば、誰かから「信用をされる」ということは、
相手からしてもらうことであり、 自分自身ではコントロールできない事柄でもあるよね。 本来であれば、信用や信頼は 「信用してよ」とか「信頼してください」と、 相手に頼むことはできないし、 また頼むことでもないということだ。 ここで1つ今日のお話の 前提を作っておきたいのだけど、 生きていく上で大切なこととして、 「自分でコントロールできない事柄については、 考えることをやめる」ということがある。 まずはここね。 その上で、「信用」というキーワードで ぼくにできることがあるとしたら、 たとえば相手に対して 「誠実に振る舞うということを約束する」ということであり、 また実際にその行動を積み重ねていくということかもしれない。 ぼくが責任を持ち、 全力を尽くすべきなのは どうやら常にこの領域で あるらしいわけね。 人との関係というものは、 小さなレンガをコツコツと 積み重ねていくことにも似ている。 たとえば「誠実」というキーワードを毎日積み重ねていくうちに、 いつの間にか、「信頼」という相手のオブジェが出来上がっているかもしれない。 そんな風に、ぼくたちが 相手に対して与えたいイメージを 相手のなかに形成していくためにできる ぼくたち自身の「行動」ってなんだろう? 、、、と。 そんなことを、今日は一緒に考えてみたいと思うのよ。 「おもちゃがほしい」とか 「かわいがってほしい」とか。 幼い子供は親に向かって ねだり続けるけれど、 大人になったぼくたちも、 しばしばそんな幼い子供と 同じような振る舞いをしてしまうことがあるよね。 そんな幼い子供に欠けているものがあるとしたら、 それは自分自身から「行動」を起こしていくという要素かもしれない。 そして、ぼくたちがコントロールできることは、 常に自分の姿勢であり行動のみであるということ。 大人になったぼくたちは、 お互いにそこを 忘れないようにしたいのだよね。 |
異なる「価値観」
2009 / 08 / 06 ( Thu ) こんにちは。
今年の夏はちょっとお天気が すっきりしないですね。 でも、ここ数年で、 どんな夏が日本らしい夏なのかということが、 すっかりわかりにくくなってしまったようにも思います。 ^^; それでも青い空に掌をいっぱいに 広げたようにして咲いている向日葵。 夕暮れの林を包み込むような、 幻想的なひぐらしの声。 夏というものは、 やっぱり良い季節だなと思います。 そんな夏の空を見上げながら、 ぼくたちがまずできることを、 しっかりやっていきたいなと改めて思わされました。 そんな「まず、ぼくたちができること」といえば、 昨日の記事では、大切な人ときちんと接していこう、 丁寧に言葉をかわしてみようというお話を書いたのですが、 最近、ぼく自身も改めてメールでのやり取りの難しさを感じたというか、 結果的にお客様の1人に対して、あまり適切でない方向の回答や応対をしてしまい、 そんなことも頭に思い浮かべながら、昨日の記事を書いておりました。 どんな関係でも行き違いや 足りないところはあると思います。 でも、そのことに気づいたら、すぐに謝ってみたり、 その人のために丁寧に時間を取っていくことで、 その関係を修復することができるかもしれない。 それでもわかってもらえないことはあるけれど、 大切なことはあなたがすぐに 諦めてしまわないというところにあるのではないかと思います。 より具体的には、 その場所とその時間をしっかり その相手のためだけに使っていくこと、 あるいはその努力。。。 真摯に働きかけるところに その気持ちは宿る。 その気持ちが宿るところに、 「絆」が生まれる。 ぼくはそんな風に思うのですね。 ぼく自身は誰かに対して手間暇をかけて 「自分のことをわかってもらおう」という意識が ちょっと希薄だったりするので、 そんなところのバランスを 取っていきたいなと思います。 小林和之の「『おろかもの』の正義論」という本には 「主観を超えた「正しさ」は、異なった価値観の調和であり、 違いがあることは希望でもある」といったようなことが 書き記されているのですが、 まさにぼくたちがそんな「異なる価値観」のハーモニーを奏でるために、 コーチングなどのコミュニケーションスキルがあると思うのですね。 そう、それはまさに、「相手の」でもなく「自分の」でもない。 すべての価値観がしっかりと自分の「音」として鳴り響く世界に生まれる、ハーモニーだ。 言葉を伝えることは難しい。 であるならば、相手の言葉を理解するということは、 もっと難しいことだろう。 相手の言葉を理解することが難しいのであるならば、 人と人とが理解し合い、つながり合うことは、 それ以上に困難なことなのかもしれない。 けれども、人と人との 「つながり」があるところに、なにかが生れ、 それが未来へと「つながる」。 そして、それをつなげるものがあるとしたら、 それはおそらく「言葉」だ。 だから、ぼくたちは言葉を紡ぐことを、 そして、相手が言葉を紡ぐことを助けることを、諦めない。 なぜならそれは、あなたという存在も、 そして、自分自身という存在も 諦めないということだから。 「異なる価値観」のその先にある、ハーモニー。 夏の空を見上げながら、 たまにはそんな目線を 新たにしてみたいと ぼくは思うのです。 |
かけがえのない人
2009 / 08 / 05 ( Wed ) こんにちは。
ぼくたちは親しい人に対してほど、 いつの間にか油断をしてしまう。 かけるべき言葉をかけなかったり、 大切に扱うことをやめてしまったり。 あの人ならわかってくれるという思い込みで、 しっかりと話し合ったり、 理解しあおうとすることをやめてしまったり。 気づいたときには、もう修復不可能なほど、 その人との距離が開いてしまっているかもしれない。 ばくたちが本当に大切にすべき人は、誰? どんなときも ぼくたちのそばにいてくれる人は、誰? 約束をやぶったり、 無視をしたり、 透明人間のように扱われると、 人は本当に透明になってしまう。 というわけで、今日のぼくたちは そんなぼくたちにとっての大切な人を 改めて大切にしてみない? いつもより丁寧に言葉をかわしてみない? そして、もしあなたがその大切な人を 傷つけてしまっているのなら、 きちんとまっすぐに謝ってみない? かけがえのないその人を失わないために。 |
江夏豊の「ロマンチシズム」
2009 / 07 / 30 ( Thu ) リバースコーチングのブログへようこそ。
前回の記事では、 世界でもっとも有名なパンクロックのアイコンである シド・ヴィシャスをネタにしたのだけど、 そこには「我々はどう生きるのか?」という 人生における大きなテーマが隠されているのだよね。 さて。 昔、「オールスター9連続三振」とか 「江夏の21球」とか、 そんな数々の伝説を作った 江夏豊というピッチャーがいた。 そんな江夏豊氏の見た目はなんというか、まあ、 いかにもガラが悪そうな ただのおっさんなんだけども(笑) しかし、彼の言葉は、 そんな彼の強面な外見には ちょっとそぐわない。 彼はいう。 「プロとは自分の生き様を決め、 なにに対して美しさを感じるかだ」と。 美しさ、、、 自然と格闘したり、 血なまぐさい現場に生きる男たちが しばしば詩人であるように、 数々の修羅場をくぐってきた そんな彼だからこそ、 その言葉は、ちょっと重い。 気難しい一匹狼として生きた彼だけど、 心の底に自分の信じる そんな「美しさ」を抱えていたからこそ、 彼は孤高を貫かざるを得なかったのかもしれない。 もし、ぼくらが道に迷った時、 彼ならばきっとこんなことをいうだろう。 「自分の生き様をはっきりさせろよ」と。 自分を「決める」からこそ、 物事は「決まる」。 彼の生き方や言動は 「ヒリヒリ」と焼けつくようでいて、 同時にたとえようもなく「甘美」でもある。 たとえ誤解をされたとしても、 自分の信じる「美しさ」とともに歩み、 孤高を貫く生き方に、 しばしば「真実」が宿る。 だからこそ、その姿には 強烈に共鳴する 人々が現れるのだよね。 そんな江夏豊の 「ロマンチシズム」を胸に抱えて、 ぼくたちは自分の道を進んでいくのも、 悪くはないのではないかな。 |
シド・ヴィシャス
2009 / 07 / 26 ( Sun ) 水田画生です。
もっとお上品に生きたほうがいいんじゃねえかとか、 あるいは、自分の人生そのものに対して、 なんだか弱気になってきたり、、、とか。 人生、いくつになっても迷うことはあるけれど、 そんなときはじっくりとテメエのツラでも 見てみたいと思うのよ。 鏡を見てみりゃ、 自分の顔が他の誰とも 違うってことがわかる。 だったら、テメエはテメエの道をいくしかねえわな。。。 ↓てなわけで、本日はシド・ヴィシャス(動画「マイ・ウェイ」)でも? いや、みなさんはこんな風になっちゃいかんけども。 (ならねえか。。。 笑) でも、彼よりずっとマトモに 生きているであろう いまのあなたの人生は、 全然なんとかなるってことかもしれない。 あるいは、もしいまのあなたが 自分の色を消したまま 自分の人生を歩んでいるのなら、 もう少しトンがってみたっていいってことさ。 ぼくたちはいつだって、 自分の顔と人生に 責任を持って、生きよう。 そう。 あなたがあなたの道を 歩んでいるのなら、 他人の道や歌い方なんて 気にすることはないんだ。 |
信じて「聞く」
2009 / 07 / 24 ( Fri ) こんにちは。
水田画生です。 梅雨が明けたはずの関東地方は、 今日も雨が降り続いています。 さて。 昨日の記事で書いたことは、ぼく自身が改めて、 「信じて待てば、人って結構気づくものなんだなぁ」という 自分自身の「気づき」と「実感」を書いたものだったのだけど、 そのためのポイントはやっぱり「聞く」ことにあると思うのですね。 ちょっと誤解のある言い方なのだけど、 たいていの人は、我々が本当の意味で 「聞いて」あげることができれば、気づく。。。 確かに、話し手がときには とんでもねえことをいっているように思えることも、 あるいは明らかに間違ったことをいっていることもあるかもしれない。 でも、ぼくたち自身が発言したときの状況を振り返ってみると、 話を聞いてくれた相手がその場ではなにもいわなかったとしても、 いや、おそらくは相手がなにもいわなかったからこそ、 「あのときはあんなことをいったけど、 間違ってたのは、俺のほうだったなぁ」なんて思ったことはない? これは裏を返せば、 人は普段、それだけ話を聞かれていない ということかもしれない。 人によっては話を聞いてもらうどころか、 かえって意見をはさまれたり、 お説教をされてしまった、、、なんて経験があるかもしれないよね。 人は自分のことが「受け止めてもらっていない」と感じると、 何度でも同じ事柄を話し続けるし、 自分を正当化しようとする思いが強まっていく。 結果として、いつまでも その事柄から抜け出すことができない。 「聞く」という行為は赤ちゃんの存在を そのまま受け止める母親のように、 いまはただそんなあなたを「受け止める」 という行為でもあるのだよね。 ここはもう特別なテクニックなんてなくてもいい。 もし、そんな風にとりあえず相手のすべてを 聞いてあげることからはじめてみようと ぼくたちが決意をしたなら、 そこから相手のなにかが変わっていくかもしれない。 いや、、、 それは必ず変わっていく。 少なくとも、ぼくはそんな確信を持って、 今日も誰かの話に耳を傾けていきたいと思います。 相手を信じて、 ちょっとだけ「待つ」。 なんだかそんな行為から流れてくるものは、 とても「温かい」ものなのではないかなと思うよ。。。 <関連記事> 「聞く」ということ 言葉のキャッチボール たまには“黙ってみる”ということ 「聞く」のではなく「話したいから」聞いている かみ合わない会話 雨のなかを歩けば、、 優しさと涙脆さとの隙間 |
待つ
2009 / 07 / 23 ( Thu ) 水田画生です。
本日はコミュニケーションにまつわる話題をどうぞ。 先週末のセミナーは講師のぼくがほとんどなにもしない日というか、 完全に参加者の方々に運営まで任せているというか、、、、 ^^; おいおい、じゃあテメエは、 いったいなにしにきたんだよって 感じなんだけども(笑) でも、まあ、なんていうのかなぁ。 そういうことをやってみて、改めて「気づく」ことは、 人は意外と「気づく」ものなんだな、、、ということだったりする。 普段なら、ぼく自身がもう少し早く介入したり、 問題提起をしているであろうポイントで、 じっと外野として見守っていると、 やがて高い確率で参加者自身が そのポイントに「触れて」いく。 もちろん彼らがこの問題に対する重要性までを 認識しているかどうかは別として、 ここは大事だなぁというポイントで、 それなりの問題提起や発言がある。 確かにちょっと回り道だし、 時間もかかるよね。 しかし、講師でもリーダーでもいいんだけど、 部下や参加者って、案外、自分の力で気づけるんだなと ぼくたち自身が実感しておくこと自体が、大きいと思う。 そうすれば、ぼくたちが次に誰かを導くことになったとき、 大切なポイントで、ちょっと相手を「待てる」、 あるいは相手を「信じることができる」、、、はず。 人が「気づく」力は、 たいていぼくたちが 考えているよりは大きい。 適切な舞台装置や材料を与えてあげれば、人は「気づける」。 今日は改めてそんな「事実」と 相手に対する「信頼」を握りしめて、 誰かと向き合ってみるというのはどうかな? <関連記事> 待つ 〜その1〜 待つ 〜その2〜 動かないことも戦略 雌伏する |
「共感」と「同情」
2009 / 07 / 17 ( Fri ) 水田画生がお届けする
リバースコーチングのブログへようこそ。 あなたは誰かから優しい言葉を かけられているはずなのに、 なんだかかえってイライラしてしまったり、 傷ついたりした経験はないかな? だけど、こういう言葉や行為って、 あなた自身のことを気にかけていたり、 心配してくれている言動であるだけに、 なんだか文句も付け辛いわけじゃん? う〜ん。 「このやり場のない『モヤモヤ感』を いったいどうすればいいんや〜〜!」と。 叫びたくもなるわけよね。。。 夕日、その他に向かって。 てなわけで。 今日はちょっと強引に そんな気持ちのやり取りにおける キーワードを整理してみようと思うのだけど。 たとえばね。 「同情する人」 「共感する人」 これはどちらも一見、 優しい人のように見えるのだけど、 実は決定的な違いがありそうにも思うのだよね。 1つの定義として「同情する人」は 必ずしも他人を「理解」しているわけではない、、、としたら? 「同情」という気持ちは、 たとえ目線はフラットであったとしても、 それは常に自分とは別の場所にいる誰かに対して 注がれるまなざしであるわけね。 あなたが仮にいま「雨に濡れている」としたら、 「同情」するその人からかけられる言葉は それがどんなに優しいニュアンスであったとしても、 「濡れているのはあなただけ」という気持ちというか、 「ぼくは濡れていない」という1つの前提が隠されている。 この「外側」からの視線に対して ぼくたちは傷ついているんだという可能性ね。 あるいは、ぼくたち自身が 他の誰かを傷つけてしまっている という可能性、、、さ。 一方で。 今日のもう1つのキーワードである 「共感」という感情についても見ていきたいのだけど、 この「共感」という感情は、 立場が違ったら自分もそんな気持ちになったり、 あるいは同じ行動を取っているかもしれないな、、、 という気持ちから出てくる感情ではないか、、、と。 たとえば通り雨に降られて、 いまあなたは「濡れている」けれど、 もし、出かける時間が違ったら、 ぼくも「濡れていたかもしれない」。 ここね。 その瞬間、あなたの「濡れた体」は 目の前のぼくにとって 無関係な世界の出来事ではなくなってしまう。 共感に裏打ちされた我々の言動には 自然と相手に対して寄り添おうという 気持ちがにじみ出てくる。 それが人に与えられた 「共感」という優れた感情であり、 メカニズムだ。 それはまさに 相手と同じ視点から 物事を見ているのだよね。 「同情」と「共感」の決定的な違いがここにある。 それはあなたの内側から発せられた視点と言葉だ。 もし、人の気持ちを救うものがあるとしたら、 それは「同情」ではなく、 この「共感」という姿勢なのではないかと思う。 共感という気持ちの原点には 「あなた“は”」ではなく、 「わたし“も”」という言葉。 もし、そこに「癒し」があるとしたなら、 それは相手の冷たさや痛みをともに感じる姿があるから。 もし、ぼくたちが相手に対して そういう気持ちを持つことができたなら、 あなたの大切な人との関係は また大きく変わっていくのではないかな? <関連記事> コミュニケーションは常に“共感”から始まる |
戸塚洋二のまなざし
2009 / 07 / 15 ( Wed ) 水田画生です。
昨夜NHKで謎の素粒子ニュートリノの質量の存在を証明し ノーベル賞を受賞するとまで言われながら 66歳の若さで亡くなった戸塚洋二氏の特集を見ておりました。 癌と、そして死と向き合いながらも、 彼は「死」の向こうにあるものを、 そして、そこになにがあるのかを見据えたいと願う。 そんな彼のまなざしに触れ、 科学者というものはたとえどんな状況に置かれたとしても、 「知りたい」という純粋且つ強烈な欲求に従って動いているのだな、、、 ということを感じました。 「知りたい」 「新しい世界を見てみたい」 あらゆる物事を通して、 そのことを突き詰めていく彼の姿は 鬼気迫るものを越えて、 もはや神々しいまでに見える。 しかし、それは本来、 ぼくたちの誰もが持っていたはずの「欲求」であり、 「才能」でもあるのだよね。 けれども、ぼくたちの多くはいつの間にか、 そんな欲求や衝動をただの「子供じみたもの」として 心の奥底に片づけてしまう。 そんな「成熟」した人々のなかにあって、 研究者や科学者といった人々は 子供のころに感じた純粋な思いと好奇心を いつまでも保ち続けることのできた 稀有な人たちのようにも見える。 「知りたい」 「探究したい」 おそらく、その思いこそが、 すべての扉を開けるのだろう。 それはパンドラの箱にも似ていて、 そこには希望も、 そして、おそらくは絶望さえも、あるだろう。 しかし、そんな扉を開けていく「定め」を、 すでにぼくたち人類は選んでもいる。 そして、それらすべてを 「希望」と「力」とに変えていく 「定め」もね。 選ばれた「知の巨人」たちでなくても、 ぼくたちはそれぞれのステージや場所で そんな扉を開く力とチャンスを握っているはずだ。 だからこそ、 ぼくたちも戸塚洋二のような 純粋で深いまなざしを持って 物事を見つめてみない? そんなまなざしを通したとき、 いつもの風景が、 いつもの風景ではないということに、 決めつけていた世界が、 決めつけていたものではないということに、 気づくかもしれない。 それは静かではあるけれど、 感動的な風景だとぼくは思う。 禁断のパンドラの箱には 必ず「希望」がともにある。 ぼくたちは今日も 勇気を持って進んでいこう。 |
夏祭り
2009 / 07 / 13 ( Mon ) 水田画生です。
今週も月曜日がやってまいりました。 昨日、夏祭りの集金にいらっしゃった近所のおじさんが、 入金済みのサインをするぼくの横顔を繁々と見つめるなり、 「普段、あんまり見かけないけど、 アンタ、イケメンだねぇ。 モテて困るんじゃないの?」 などと、突然おっしゃる。 へ、、、? いやぁ、ありがとうございますぅ ( ̄▽ ̄*) それはもうモテてモテて、、、 \(−−;)バシッ 、、、いや、 現実は地味なものでございますぅ (T_T) にしても、しかし。 突然、どうしたんやろな。 そんなこといわれたかて、 別になんも出ないけど。 (いや、夏祭り代、払ってるけど。。。) などと、思いつつ。 年配の人もそういう言葉遣いを するんだなぁなんてことを、ふと思った。 その日はさらに家のピンポンが鳴り、 「上の階に越してきた○○ですぅ」 笑顔のおっちゃんから、 やけに可愛らしい柄の フェイスタオル、もろた。 そんなタオルの柄と、 ランニング姿のおっちゃんと ひぐらしの声、、、みたいな。 カナカナカナカナ、、、、 いえ、こちらこそ、 どうぞよろしくお願いしますm(__)m ・・・・・・にしても、しかし。 この地に住んで既に5年以上が経つというのに、 未だに「あんまり見ない」といわれるほど 存在感を感じさせないワタクシ。 ^^; 確かにご近所の方とは 普段、ほとんど顔を合わすことはないから、 なんか珍しい日だったなぁ、、、とは思う。 近くに住む人々と、疎遠。 近くに住む人ほど、遠い。 それが現代に生きる ぼくらの1つの現実。 それでも、 ワタクシの住む地域では、 今年も夏祭りがやってくる。 そこに携わる人々や、 そんな日々に感謝を込めつつ 移りゆく空を愛で、 流れゆく雲を追うように、 ぼくたちは今週も そんな人生という季節をしっかりと迎え、 そして、味わっていこうね。 <夏祭りに関連した記事> 「デッカい御神輿を担ぐ!」 |
人類補完計画
2009 / 07 / 12 ( Sun ) 水田画生です。
日曜日の午後は少し哲学的な お話をいたしましょうか。。。 TV放映からすでに10年以上過ぎた「エヴァンゲリオン」が またまた映画化されているようでございますが、 作中で重要なキーワードとして語られる「人類補完計画」は 心を持ち、不完全な存在である人類がより完全な存在となるために 互いを補完し合い、統合していくなんちゅう趣旨だったように記憶しております。 (相当大雑把な解釈だけど、、、 ^^;) これはバラバラに存在しているものが 実は一体であり、 あるいは相互に影響をしあっているという 量子論的な考え方にも似ていて、 まあ、なんちゅうか。。。 ものすごく乱暴に表現するならば、 1つが全体であり、 全体が一部であるとでもいうべき概念なわけですね。 1つが全体、 全体が一部、、、なんていうと、 まさに「なんのこっちゃい?」という 感覚なのだけど、 実はこういう感覚で ぼくたち自身の「存在」を捉えなおしたとき、 結構、いろんなことが説明しやすくなるようにも思うのです。 仮にあなたが「全体」であるということは、 あなたという存在は そのまま無限の宇宙とつながっていて、 完全に調和のとれた存在であり、 だからこそ、あなたはいま、 「ここに存在するだけで意味がある」ということになる。 さらに大胆な仮説を広げるとするならば、 すべての答えはまさに「あなた」という 宇宙のなかにあるということでもあるよね。 あるいは、あなたが一方で その「全体」の調和を織りなす「一部」であるということは、 あなたはその「全体の調和」のなかで、 あなただからこそ果たすべき、 いや、果たせる役割があるということになる。 それはすべての個性が平等且つ重要であり、 ぼくたちの「生き方」であり「価値」が 宇宙的に保証されているという感覚なわけよね。 そこに人の優劣は存在しない。 ぼくたちが自分自身であるということこそが完全な調和であり、 それはすべての人が等しく可能性を持つ世界、、、なわけだ。 いかがかしら? だからね、 もし、あなたがいま、 自分は取るに足らない存在だという 無力感を覚えているなら、 ほんの少しだけ、この量子の世界に 思いを馳せてみたらどうかなと思うよ。 「あなたは完全であり、 あなたは必要とされている」 これは宇宙から届く あなたへのメッセージだ。 あなたを取り巻く環境へのまなざしが、 そしてなによりも、 あなた自身へのあなたのまなざしが、 変わるのではないかな。 |
「無」という習慣
2009 / 07 / 11 ( Sat ) 水田画生がお届けする
リバースコーチングのブログへようこそ。 「無」になる状態って、 とても大切なことだと思うのだよね。 たとえば、スタイルがよい女の子がいいな、、、とか 年収は1000万以上で、、、 なんて条件を作ることも悪くはないのだけど、 それはときに雑念となって、 ぼくたちが元々持っている「直観」の力を 失わせてしまうこともあるのだよね。 物事には、もっと深い部分での 結びつきというものが、あったりする。 あなたが仮にいろんな雑念に惑わされず、 真っ白な状態を作ることができるなら、 容姿、学歴、年収、家柄、、、 そんなフィルターをかけていたときには見えなかったものが、 見えてくるかもしれない。 あなたに必要なものは、 あなたの心が知っている。 それもずっと昔からね。 どうも最近、物事の判断が悪いなと感じるときは、 自分のなかをいったん空っぽにしてみない? 日々の生活のなかで、そんな時間を意識的に確保してみない? すると、自分にとって必要なものが、 その静かで真っ白な世界の先から突然、 くっきりと鮮やかな色合いを帯びて やってくるのが見えるかもしれない。 少なくとも、以前とはちょっと違った視点で、 あなたは周囲の状況を見据えることができるようになるはずだ。 部屋の中にモノがいっぱいだったりすると、 新しいモノは入らないし、 その場所が雑然としていると、 どんなものがそこに似合うのかもわからないよね。。。 そんなときのぼくたちは、 たいてい周囲の環境と 「対峙」している。 そこで、もしぼくたちが 呼吸を整えて、 心を静かに保ったとしたら? あなたを取り巻く すべての環境と 「調和」したとしたら? それは周囲と自分との境界がなくなるような、感覚。。。 ね? それはいままでの あなたを取り巻く風景と同じだろうか? 焦ることなく、あなたを取り巻く世界のなかに佇めば、 いまのあなたに必要なものがなにかということが、見えてくる。 しかし、忙しさや雑音はそんなあなたを導く 「心の声」を消してしまうのだよね。 だからこそ、まずはそんな生活習慣から作ってみたいとぼくは思う。 少なくとも、この週末ぐらい、 そんなちょっと穏やかな時間のなかで過ごすしてみるのも、 悪くはないのではないかな。 <「心の声」をキーワードとした関連記事> 「静けさの海」 「心の声」 「心の声 2」 「心の声 3 〜真に豊かな人生を踏み出すために〜」 |
安全に話す
2009 / 07 / 06 ( Mon ) こんにちは、水田画生です。
リバースコーチングのブログへようこそ。 これはぼく自身も 日々実感していることなのだけど、 「言葉」を話すのって、案外難しい。 いや、たぶん、想像以上に難しい。 あなたにも話せば話すほど、 伝えたい気持ちや事柄から どんどん遠ざかってしまったなんて 経験はないかな? あなたが話し終わった後に、 相手から「そういうことなんですね」といわれても、 「いや、そういうことじゃねえよなぁ」と 脱力感というか、敗北感というか、 なんだかかえってやり場のない「傷」を負ったりとか、 そんな気分になることってない? ぼくのお客様も大切な考えや気持ちを話し始めようとするときに、 よく「うまく言葉にできないんですが…」と口にする。 そんなときぼくは口癖のように 「うまく喋れなくてもいいんですよ。 とりあえず言葉にすることが大切ですから」という。 自分の考えや気持ちを伝えるために 言葉を使いこなすということが どれだけ難しいかということを知っているからこそ、 表に出てきた言葉だけで、 ぼくは決してあなたを判断しないということを 伝えてあげたいのだよね。 感じていることを、、、 自分の気持ちを、 自分の考えを、 うまく話すことって、難しい。 話せば話すほど それはぼくらが本当に伝えたいことから 遠くなってしまう。 人が言葉にできるものって、 本当はとてもわずかなものでしか ないのかもしれないよね。。 でも、ぼくらは、話したい。 言葉にしたい。 わたしの気持ちを、わかってほしい。 そんなあなたの気持ちを 受け止めるために、 ぼくは今日もここにいようと思う。 あなたの不完全な「言葉」。 それでいい。 そんな言葉のかけらを 今日も一緒に組み立てていこう。 そう。 ぼくは決して あなたの「言葉」だけで あなたを決めない。 |
うたかたの日々
2009 / 07 / 05 ( Sun ) こんにちは。
水田画生です。 ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」という小説のなかに 主人公がデューク・エリントンの曲を演奏すると カクテルができ上がるという ありえねぇピアノが登場するのだけど、 なんだかエリントンのピアノなら そんなカクテルの1つや2つぐらい 作ってくれそうな気分にもなってくる。 笑 まあ、エリントンじゃなくたって、、、 それがどんな音楽であったとしても、 空間に紡ぎ出された音のかけらは 一瞬のうちに消えてしまうよね。 でも、だからといって、 それはなかったことにはならなくて、 その音が紡ぎ出した心の余韻は いつまでもぼくたちのなかから消えることはない。 人生も同じでさ。 それがどんなに些細な出来事であったとしても、 あるいは一瞬の出会いであったとしても、 ぼくたちの心のなかには 豊かな「想い」のカクテルができあがる。。。 たとえそれが「うたかた」であったとしても、 いや、だからこそ、そこには豊かな「想い」が刻まれる。 だから、ぼくたちは今日もしっかりと感じていこう。 そして、ゆっくりと味わおう。 あなたの大切な人が紡ぎだす、その声や想いを。 意外と聴きたくなるのは なぜか初期のちょっと地味な音、、、(笑) ボリス・ヴィアンを読むとエリントンを聴かずにはいられない、、、? <関連記事> 「冷たい水の中の小さな太陽」 |
影響の輪
2009 / 07 / 04 ( Sat ) 水田画生がお届けする
リバースコーチングのブログへようこそ。 どんなに自分では取るに足らない存在だと思っていても、 あなたは必ず誰かに対して影響を与えている。 いや、「与えてしまう」という言葉の方が正しいかな。 別に気の利いた言葉を喋ることができなくたって、 あなたがいつも笑顔でいれば、 知らず知らずのうちに 周囲の人たちも楽しい気分になっていくよね。 反対にあなたが不機嫌な顔ばかりをしていたら、 あなたの周りの人たちも 釣られて不機嫌な顔になってしまう。 あるいはあなたがただ 心が痛んでいる人のそばにいるだけで、 その人の心は静かに癒されていくかもしれない。 そんな風にぼくたちの存在が誰かに対して 「影響」を与えるものであるならば、 それはできるだけ好ましいもののほうがいいような気がする。 大切な人の心が軽くなったり、 その人の唇に笑顔が浮かんだら、 どんなにいいだろうか、、、と思う。 そして、ぼくたちは1人の例外もなく、 そんな「力」を持っているとしたら? 仮にぼくたちがとても 「小さな者」だとししても、 そんな「小さな者」だからこそ、 ぼくたちはとても親しい人たちの間にある もっとも「小さな影響の輪」を 大切にしてみたいと思うのだよね。 あなたの笑顔があなたの身近な人を笑顔にし、 あなたの存在がその人の気持ちを楽にする。 ぼくたちは誰でもそんな 小さな小さな「影響の輪」を持っている。 だからこそ。 この週末はいつもより そんな「小さな影響の輪」の存在を 意識しながら過ごしてみない? 「好ましい影響」というものは 実は誰の手からでも 作り出すことができるものだということ。 そんな「力」をあなたにも ぜひ実感してほしいとぼくは思うよ。 |
ホラを吹く
2009 / 07 / 02 ( Thu ) 水田画生がお届けする
リバースコーチングのブログへようこそ。 さてと。 いきなりではございますが、 ときには目いっぱい夢を語ってみない? 現実にはありえないような 馬鹿馬鹿しい話を 思う存分語り合ってみない? 「枠」を外すという意図を持って、 壮大な夢や荒唐無稽な話をすることは、 結構、大切なことだとぼくは思うのよ。 いや、ここは「人生において不可欠だぜ、、、」とまで、いっておこう。 笑 「それはできない」 「これは不可能」 、、、ぢゃなくてね。 ここはいったん、 そんな発想や 言葉遣いは、なし。 何年も同じ職場にいたり、 あるいは大人になると、 確かに1年のペース配分や、 ゴール設定自体はうまくなってくるよね。 でも、それは単に現実的な路線であったり、 妥協の産物ということも多いのではないかな? 実はそれってゴールの形をしていても、ゴールじゃない。 夢の形をしていても、夢じゃない。 昨日の記事でも触れたけど、 それは「熱くもなく」 「冷たくもない」ものだ。 それらの言葉はぼくたちにとって ただの言葉でしかなく、 ぼくたちの気持ちに熱い炎をつけてはくれない。 昨日、ぼくたちがともに学んだことがあるとしたら、 そんな事柄こそがぼくたちの熱意や思考力を 根本から腐らせるということだよね。 もちろん堅実な発想や路線は、 アイディアを現実化していく段階において必要なことだ。 でも、最初からそれだけってのは、どうなんだろう? そんな疑問を持ってみたいのよ。 仮にあなたが良い人であればあるほど、 親や教師、さらには上司の期待に応えるために 一生懸命生きてきたのではないかと思う。 そんなあなたはとても素敵な人だとぼくは思うよ^^ でも、どんなにあなたが彼らの期待に応えて生きてきたとしても、 それは彼らの価値観であってあなたの価値観ではないし、 さらにいうならばそれは彼らの人生であって、あなたの人生ですらないかもしれない。 だから、いまはいったんそんな模範解答は脇へと置いてね。 熱くもなく冷たくもない、 ただ当たり前なだけの発想はもういらない。 話していて目が輝かないものは たとえ価値あるものの姿をしていても、価値じゃない。 誰かの期待に添う夢は、 夢の形をしていても、夢じゃない。 ぼくたちはそのことを 覚えておきたいのさ。 え? 「そんなこと達成できっこない」って?! うん、いいじゃないの! たとえそれがとても達成できないことのように思えても、 真面目な思考に馬鹿馬鹿しい発想や 突拍子もないネタを織り交ぜると、 間違いなくそれは突き抜けた発想の元になっていく。 さらにはそんな壮大な夢こそが いつの間にか貧困になってしまった ぼくらの発想や行動の足かせを外す! 頭のなかでそれを練り上げること、 あるいは時間と場所を作って それを思いっきり口にする場を設けることは、 ノーリスクだよね。 そして、もし山を登り始めたら、 最初はなんだか突拍子もないように思えた考えやゴールが 案外実現できそうなことに気づくかもしれない。 物事は頭のなかで考えてみなくちゃ、気づかない。 イメージしなくちゃ、叶わない。 これは、とても重要な「事実」であり、「真理」だ。 人生も仕事も ぼくたちが考える以上に、奥深い。 それはもっともっと自由に もっともっと面白くできるはずだとぼくは思う。 「熱くもなく」 「冷たくもない」 そんな形だけの模範解答を捨てるために ぼくたちは思考の「枠」を外してしまおう。 ぼくたちは誰のものでもない、 ぼくたち自身の人生こそを生きる。 てなわけで、今日のまとめは みんなで思う存分、「大ボラを吹こうぜ!」ってことで。 笑 「できる」「できない」の枠を外すと、人生が楽になる。 いままできっちりと生きてきた人ほど、 それはとても新鮮で 伸び伸びした瞬間になるはずだとぼくは思うよ。 <関連記事> 「グレーゾーン」 |
グレーゾーン
2009 / 07 / 01 ( Wed ) 水田画生がお届けする
リバースコーチングのブログへようこそ。 毎日雨が降り続くような、 まさに梅雨本番のお天気が続いておりますが、 なんと本日から7月でございます( ̄□ ̄;)!! 今年も後半戦。 しっかりと折り返してまいりましょう。 さて、本日はコミュニケーションにまつわる話題から。 この世で一番始末に負えねえのは、 熱くもなく冷たくもない、 つまりは「ぬるい」という存在だったりする。 ぬるいお水はカップラーメンもアイスコーヒーも作れない、 どうにもこうにもやっかいな存在であるわけよね。 これが人間であれば、 そういった人々はまさにグループを 根本から腐らせてしまう。 そう。 「ぬるさ」の最大の恐ろしさは、 そこに関わるものを 徐々に蝕んでしまうということだ。 そして、コミュニケーションを学んでいる人のなかにも、 この「熱くもなく、冷たくもない」人ってのがたまに混じっていたりするよね。 相手との衝突を避けるテクニックばかりを覚えてしまうと、 この「熱くもなく、冷たくもない」、、、 つまりは限りなく「グレー」な人が出来上がってしまうのでございます。 う〜ん、そうだなぁ。 コミュニケーションにおいて大切とされる「ニュートラル」という態度は 必ずしも「色」とか「感情」を表に出さないということではないと思うのよ。 どこまでいっても真っ平らで なんだか本心がどこにあるのかわからないような人に 人は心を開けないよね。 人には誰でも自分の生まれ持った「色」というものがある。 そんな自分の色は自分の色として しっかりと保ちながら、 他人の色も尊重できること。 それがコミュニケーションのもっとも重要なポイントとなるのだよね。 自分の「色」を表すことは、 他人の色を尊重しないという行為と イコールではない。 このことをまずはしっかりと心に留めてみない? 色が違うということは「対立」ではなくて、「可能性」だ。 だから、人と色が違うということも、恐れる必要はない。 むしろ、コミュニケーションというものは そこからはじまることを知ってさえいれば、 他人と色が違うということを 必要以上に恐れなくても済むようになるはずだよね。 「ぼくは赤だよ」といったからといって、 その場を赤一色に染め上げなければいけないわけじゃない。 仮に相手の色が「青」ならば、 あなたは「そうか、きみは青なんだね!」と 大きな興味を持って受け止めてあげればいいのさ。 お互いの色が鮮やかに浮かび上がってこそ、 美しい色のハーモニーが出来上がる。 画家がパレットに絵の具を出すように、 お互いの色をきちんと出しあってはじめて、 ぼくたちはその場の「色の配合」を決めることができるのだよね。 コミュニケーションにおいては、 自分の色を出さないことではなく、 そんな風に他人の色をしっかりと手に取る という行為こそが重要だ。 隠すのでもなく、 塗りつぶすのでもない。 そのことを心に留めれば、 ぼくたちの他者との関係の作り方は 明らかに変わっていくのではないかな。 ぼくたちはもう色を出すことを恐れない。 「グレー」な人にはならない。 そんなあなたの筆さばきこそが、 職場や家庭の未来を描いていく。 では、またね。 |
スローテンポ
2009 / 06 / 29 ( Mon ) 水田画生がお届けする
リバースコーチングのブログへようこそ。 ワタクシの住む地域では、 昨日とは打って変わってお日様が顔をのぞかせております。 今週も月曜日が始まっておりますね。 そんな皆様の様子はいかがでございましょうか? ちょっとのんびり過ごせる週末に比べると、 多くの人にとって仕事が再開する月曜日は なんとなく慌ただしい1日なのではないかと思います。 人によってはそんな忙しさに流されて、 自分のペースがつかめないままに、 1日が終わってしまうかもしれない。 たくさんのことがあっという間に 通り過ぎていくのだけど、 そのときが過ぎ去ってみると、 自分のなかにはなにも残っていないような感覚に 陥ったりすることはない? そんなときって、 「ああ、いったい俺は今日1日、なにをしていたんやろ?」みたいな なんだかちょっと虚しい気分になったりするのだよね。。。 だとしたら、 ここはほんのちょっとだけ、 そんな目の前を通り過ぎるいくつかの事柄に 心を砕いてみるというのはどうかな、、、なんて思うわけです。 人生というキャンバスに 絵筆で「ハイライト」を入れるみたいな感覚で お客様の顔を、 同僚の姿や 部下の一言を、 お昼に駆け込んだお蕎麦屋さんのお蕎麦の味とか、 子供のしぐさ、 あるいは流れていく風景を、 ほんの一瞬、 ほんの少しだけ、 丁寧に見つめることができたなら、 あるいは味わうことができたなら、 なにか違った角度から 物事が見えてくるかもしれない。 少なくとも、その「見つめたり」 「味わった」瞬間は、 今日の記憶として、 しっかり残るはずだよね。 それこそが、 今日もぼくたちが その日を「生きた」という証だ。 どんなに慌ただしいなかでも、 いや、慌ただしい時間だからこそ、 そんな「丁寧さ」が際立つのだと思う。 それは魔法のように生み出される 一瞬の「スローテンポ」。 ぼくたちは決して時間に流されない。 そんな意志を持って この1日を過ごすための「リズム」。 あなたの今週1週間も どうか豊かなものとなりますように。 |




